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Prologueプロローグ
株式会社ニッコーの創業者・有働功は、1925年11月23日、父・有働勍と母・チズ子の間に6人きょうだいの長男として、熊本県山鹿市に生まれた。
1920年代と言えば、軍事や鉱工業に立脚する都市が急成長した時代である。中でも4大工業地帯の中心となる、川崎・堺・尼崎などの躍進ぶりは目を見張るものがあった。都市文化の進展もめざましく、功が生まれた1925年には、東京でラジオ放送が開始され、すぐに大阪、名古屋にも開局、マス・メディア時代が開幕する。
1996年エピソード
バブル崩壊後の構造不況によって、当社の業績にもかげりが見えだしてきた。そんな最中の1996(平成8)年4月、有働功社長が代表取締役会長に、有働英司副社長が代表取締役社長に就任。
弱冠41歳で経営のバトンを引き継いだ英司新社長は、「電炉製鋼技術のパイオニアたるべし」との決意を表明。お客様の要望に応えながら、最適な電気炉設備を提供し、コンサルティングから、設計・製造、据付、運転指導、メンテナンスまで一貫したサービスを提供していくとして、社是「クイック対応 シンプルな機構 高品質」を掲げた。
2009年エピソード
有働英司新社長は、「会社を存続させる、利益は社員に還元する」との決意表明をし、2代目経営者として独自色を打ち出していく。
2009(平成21)年4月から本社の改装と共に、福利厚生の充実や社員の待遇改善に積極姿勢で取り組んだ。
事業については、電気炉やその附帯設備の開発・製造から、蓄積してきた技術・ノウハウを活かしたコンサルティングやメンテナンスまで、トータルにサービスを提供する総合エンジニアリング企業を目指すまでに成長した。
創業期
成長期
拡大期
安定期
飛翔期
1966年エピソード
1966(昭和41)年3月26日、有働功は独立。株式会社ニッコーの前身、日本鉱産株式会社の設立である。
創業時の主な事業としては、日伸製鋼姫路工場でのメンテナンス下請け作業を行っていたが、併せて燃焼機器(商品名:ジェットバーナー)開発に取り組み、製鋼コンサルタント業務も開始した。
ジェットバーナーは、当社の最初のヒット商品であり、創業後の成長発展に大きく貢献して今日まで続いている。
1977年エピソード
日本鉱産は、もともと製鋼用資材(合金鉄、耐火物)を主に扱っていた。その後、製鋼設備として、ジェットバーナー、集塵装置、石灰投射機、カーボンインジェクター等の納入が増え、社名の”鉱産”の2文字が事業実態に相応しくなくなったため、1977(昭和52)年2月に株式会社ニッコーと社名を変更。同時に本社を現在の新布引ビルに移転した。
1987年エピソード
当社が集塵装置メーカーとして台頭したのは、1980年代終わりから1990年代はじめにかけてであり、当社の歴史上、大きなターニングポイントになった。その背景には、上田澄夫(当時・取締役部長)の入社がある。集塵装置メーカーに長らく勤めたエンジニアであり、その技術ノウハウを得て大型案件を受注できるようになった。1980年代に入ってからの環境問題、公害問題への関心が高まりもあり、当社の集塵設備は一躍クローズアップされるようになった。
2012年エピソード
この時期、台湾、韓国のビジネスは引き続き受注があったものの、ピークは過ぎた感があった。その一方で、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ベトナム、タイ等、東南アジアへの電気炉を中心とした製鋼設備全体の商談がまとまるようになった。
2012(平成24)年には、ニッコー初となる国内LF及び付帯設備を一括(設計・製作・工事)受注し、大手競合の中に一石を投じた。